Lumilinna

今日も、気ままに フィンランドから

冬支度

11月の声を聞くと、一気に加速するのが冬支度。

 

サッカー場に組み立てられた、楕円形のフェンス。いずれ気温が0℃を下回るようになると、氷が張られスケート場に変身する。

 

公園のブランコは、寒さに備えて鎖と座板が外され支柱だけとなり、その姿からは孤独感が漂う。

 

黄葉した葉は枯れ落ち、木々は色を失う。

渡り鳥は南の国への渡航準備に余念がなく、極北の国に留まる小鳥たちは、今のうちにとばかりに木の実をついばむ。

家々の軒先や窓辺に灯される電飾やロウソクの灯りが、ひとつ、ふたつと増えてゆき、

人々は来るべき長く寒い冬に備え、冬支度に余念がない。

 

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 一日ごとに5〜6分単位で日が短くなるフィンランドの11月は、ダークでグレイな世界。0℃前後を行ったり来たりしながら、雨やみぞれ、時には雪を繰り返し、それでもまだ冬にはなりきれず。太陽は厚い雲の陰に隠れたまま。

 

フィンランド語で11月は"marraskuu"といいます。「死にゆく月」という意味です。収穫を終え、荒地と化した畑に、枯れ果てた野原、徐々に生気を失っていく自然のさまに、先人は「死」を連想したのです。

 

このような、ダークで、グレイでウエット、と負の要素三拍子が揃ったフィンランドの11月は、何とも気が滅入りそうではあるのですが、実は、そうネガティブなことばかりではないのです。

 

元来、農/酪/林業が主産業であったフィンランド、晩秋は"sadonkorjuu"(harvest、収穫)の季節でした。収穫を祝い、予祝、つまり翌年の豊作を願う、歳時の時期でもあったのです。キリスト教以前のフィンランドには、"kekri"という収穫を祝う大イベントがありました。そして、収穫と太陽は切っても切れない関係、つまりフィンランドには太陽信仰の土壌があったのです。

 

イエス・キリストの誕生日であるクリスマスが、なぜ冬至の時期にあるのか、これは決して太陽信仰と無関係ではありません。また、クリスマスに付きものの「光」も太陽信仰のなごりです。クリスマスというキリスト教行事が、北方ヨーロッパで始まったのも偶然ではありません。元来は異教の祭りであったものが、キリスト教の広まりとともに、クリスマスという行事に姿を変えていったのです。

 

フィンランドのように、極北の国で11月を過ごすと、クリスマスというイベントの必然性がよく理解できます。暗く寒い季節には、クリスマスのように、人々の心を元気づける楽しみが必要だったのです。"Kekri"も"joulu"*1も、「死に行く11月」を乗り切る先人の知恵であったのでしょう

 

トーベ・ヤンソンの『ムーミン谷の十一月』にはこういうくだりがあります。

 冬もまぢかな、ひっそりした秋のひとときは、寒々として、いやなときだと思ったら大間違いです。せっせと、せいいっぱい冬じたくのたくわえをして、安心なところにしまいこむときなのですからね。自分の持ちものを、できるだけ身ぢかに、ぴったりひきよせるのは、なんとたのしいことでしょう。自分のぬくもりや、自分の考えをまとめて、心のおく深くほりさげたあなに、たくわえるのです。その安心なあなに、たいせつなものや、とうといものや、自分自身までを、そっとしまっておくのです。

 やがて、きびしい寒さや、たけりくるうあらしや、長い暗やみが、思いっきりおそってくるでしょう。あらしは、あちこちのかべを手さぐりして、はいりこむ入り口を見つけようと、必死になるでしょう。

 でも、どこもみんなふさがっていて、中では、とっくに、こんなときを見こしていた人が、ぽかぽかあたたかにして、ひとり、ゆったりと、くすくすわらっているのです。*2

 

どうです?11月も捨てたもんじゃない、と思いませんか?

このポジティブなメランコリー感、私は大好きです。

 

これが12月に入ると、日本語の「師走」という言葉がぴったりと当てはまります。誰もがクリスマスの準備に右往左往。この辺の様子は『もみの木』というムーミンの短編小説が面白いのですが、その話はまた次の機会に。

 

 

*1:フィンランド語で「クリスマス」の意。語源は、スウェーデン語の"julで「冬至祭」の意。

*2:『ムーミン谷の十一月』トーベ=ヤンソン作/絵 鈴木徹郎訳 講談社 2004年

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